アブグレイブ収容所と心理学者:「Fixing Hell: An Army Psychologist Confronts Abu Ghraib」(James,2008)
昨年8月にアメリカ心理学会(APA)の最高意思決定機関である代議員会は「国家安全保障に係る尋問」に心理学者が関与することを禁止し,学会の倫理政策を変更しました.
9.11同時多発テロの後にアメリカが戦ってきた対テロ戦争において,CIAが実施した拘禁作戦の中核を担った軍事心理学者が「強化尋問技法」を開発して過酷尋問を行ったこと,ガンタナモ収容所などで国防総省の心理学者が「行動科学コンサルテーションチーム(BSCT)」の主要なメンバーとして過酷尋問に関与していたことが,問題の焦点でした.
行動科学コンサルテーションチームで活動した軍事心理学者の手記が広く読まれています.
Larry C. James著 Fixing Hell: An Army Psychologist Confronts Abu Ghraib(地獄を修復する:アブグレイブに立ち向かった陸軍心理学者) Grand Central Publishing,2008
著者のL.ジェームズはアメリカ陸軍の退役大佐です.ガンタナモ基地(キューバ)やイラクの戦地などで心理学者として働いた経験は,一読に値します.
ガンタナモでもアブグレイブでも「チーフ・サイコロジスト」として,行動科学者や健康専門職者の立場から対テロ戦争の遂行のために枢要な役割を果たしました.
2004年にアブグレイブ収容所(イラク)で米兵が収容者を虐待した事実が発覚し,スキャンダルを巻き起こしました.イラク人の反米感情が高まり,アメリカにとって戦況が悪化する転換点になった,とも言われています.
そのアブグレイブ収容所の「地獄」を修復するためにジェームズが派遣され,収容者と監視にあたる米兵の処遇の改善に努め,虐待の防止に貢献した,とされています.
米兵による収容者の虐待はジンバルドーの監獄実験を参照して説明されました.「普通の人」が特殊な環境の影響を受けて,邪悪な行為を行ったという説明です.「ルシファー効果」はここから生まれた専門用語です.
ジンバルドーがこの本の序文を書いています.
行動科学コンサルテーションチームによる過酷尋問が問題になったガンタナモ収容所でも,ジェームズは心理学の専門的知識を活用してオペラント条件づけによる行動変容法を尋問で用いるよう助言したそうです.被尋問者が尋問に協力すれば,正の強化子(生活用品や食物など)を提示する,という方法です.
こうして心理学の専門的な知識や技術を用いて尋問に寄与し,収容者の保護にあたった,とされています.
アメリカの内外で激しい論争を巻き起こした過酷尋問については,ガンタナモ収容所を視察した国際赤十字が偏った見方を広めてしまったが,実際には「心理学的拷問」は行われていない,心理学者は尋問で有用な役割を果たしていた,国防総省のBSCTで働いている心理学者を非難するのは誤りだ,という立場をとっています.
尋問に反対するAPA会員はこの点で判断を誤っている,という主張です.
この主張は人権NGOやニューヨークタイムズなどの調査報道とは異なり,冒頭で述べたAPA代議員会やホフマン報告の考えとは異なります.
とはいえ,アブグレイブ収容所の荒んだ環境や兵士の劣悪な生活条件,イラクから帰還したジェームズが発症した深刻なPTSDの症状,軍隊で働く心理学者の考え方など,長年,国防総省に勤務し対テロ戦争の最前線を経験した心理学者の報告は,理論心理学者や批判心理学者が「心理学とは何か」という問題を考えるうえで,参考になります.
ジェームズは2005年にAPAが倫理政策を変更した(悪名高い)PENSタスクフォースのメンバーでした.対テロ戦争の時代にAPAの運営に大きな影響を与えてきた軍事心理学部会(第19部会)の幹部です.
心理学的拷問を討議するAPAの集会で,「国家安全保障に係る尋問」の禁止を求める動議に反対意見を述べる様子がデモクラシー・ナウ!で報道されました.心理学者が捕虜や被拘禁者の尋問に関与することが,虐待の防止に役立っている,と一貫して主張していました.
昨年8月にAPAの倫理政策を再度,変更した代議員会で,ジェームズが「国家安全保障に係る尋問」にAPA会員が関与することを禁止する動議に反対する模様が放映されました.
No More Torture: World’s Largest Group of Psychologists Bans Role in National Security Interrogations
http://www.democracynow.org/2015/8/10/no_more_torture_world_s_largest
ジェームズの著書には,国防総省の心理学者の指導者とされるM.バンクス大佐や,ガンタナモで過酷尋問を行いそのマニュアルを執筆したというJ.ラソ少佐も登場します.
3名の軍事心理学者は拷問への加担や健康専門職者の倫理をめぐって,しばしば名前が取りざたされてきました.
日本の心理学者には馴染みのない心理学の領域ですが,戦後に日本の心理学に大きな影響を与えてきたアメリカ心理学は軍事・情報セクターと密接な関係を築いてきたのです.
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