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2020年7月

2020年7月21日 (火)

ソーンダイク会館の名称変更:差別思想を理由としたコロンビア大学ティーチャーズカレッジの決断

「心理学史のなかの英雄」としてのソーンダイク
 教育心理学の創始者のひとりとして,また「教育測定運動の父」として知られるアメリカの心理学者,ソーンダイク(Edward Lee Thorndike,1874-1949).
 学習心理学では「問題箱」を用い,ネコを被験体とした研究でみいだした「ソーンダイクの効果の法則」で有名です.行動主義や新行動主義の時代に心理学界をリードした動物実験による「生活体の心理学」を19世紀末に始めた先駆者です.
 特定の種の動物の心ではなく,ヒトを含む生活体一般の心を動物実験を行って研究した最初の心理学者と心理学史のなかでて位置づけられます.

 こうした業績によってG.S.ホールやJ.M.キャッテルなどどともに,19世紀末から20世紀前半のアメリカ心理学史に名を刻む「英雄的心理学者」と評価されています.
 日本でも心理学を学んだことのある人や,教員免許を取得するために教育心理学の科目を履修した人にお馴染みの名前でしょう.

 ソーンダイクが長年,研究と教育に取り組んだニューヨークのコロンビア大学ティーチャーズカレッジは,彼の功績を讃えて50年ほど前に同カレッジの主要な建物のひとつを「E.L.ソーンダイク・ホール」と命名しました.
 ソーンダイクの名声を考えれば,意外なことではありません.


ソーンダイク・ホールの名称変更:根深い差別思想
 しかし2020年7月15日に同カレッジの理事会と学長が連名で,ソーンダイクが優生学の擁護者であり人種主義的,性差別的,反ユダヤ主義的思想を抱いていたことが確認されたため,キャンパス内の「ソーンダイク・ホール」から彼の名を除くことを決めた,と発表しました.
 心理学や教育測定における彼の業績への評価は変わらないが,彼の思想が普遍性や公正さを重んじる同カレッジの教育理念にそぐわない,とされています.

 詳細はコロンビア大学ティーチャーズカレッジのプレス・リリースをご覧ください.
 https://www.tc.columbia.edu/articles/2020/july/important-announcement-from-the-president--chair-of-the-board-of-trustees/

 
 日本人女性で初めて心理学を専攻して博士号を取得した原口鶴子(1886-1915)を,コロンビア大学大学院で指導したソーンダイク.
 20世紀初頭に原口が単身,ニューヨークに赴きコロンビア大学に留学して不慣れな英語での授業に臨むと,指導教授であるソーンダイクが親切に処遇したと聞いていたので,上のニュースは私には意外でした.当時,日本では女性が高等教育を受ける道はほとんど閉ざされていましたが,ソーンダイクは始めから原口は博士課程に入学すべきだ,と心理学を志す彼女を後押ししました.

 しかしソーンダイクのように19世紀の後半から20世紀前半の時代を生きた,アメリカの白人の中流階級の男性が今日の道徳的基準からみて,人種主義的で性差別主義的で反ユダヤ的な思想を抱いていた,優性思想を支持していたということはありそうな話だ,とも思われます.
 19世紀から20世紀のアメリカ心理学界を主導した多くの心理学者が,今日の倫理観や価値観から振り返ると差別的な思想を抱いていた例を,心理学史研究者が報告しています.

  批判心理学史のヒストリオグラフィ(歴史主義)の立場からみると,同時代の文化や政治経済,社会的条件のもとでソーンダイクの立場を理解することが大切です.中流階級に属する同時代のアメリカの白人男性と比べて,ソーンダイクの思想が際立って差別的なものだったのか,一考の余地があります.

 しかし「歴史的偉業」で知られる人物の評価は,時代によって変わります.過去の時代に問題視されなかった差別的思想が,価値観や権力関係が変わった後の時代に批判的検討の対象になるのも当然のことです.歴史をみる見方はその時代の価値観や社会情勢の影響のもとで変わっていくものです.
 人種思想にもとづく差別や抑圧は人道に反し,人間の基本的な権利や幸福を毀損するため,決して容認することはできません.

 ソーンダイクが学術と教育の領域で大きな功績を残した著名な研究者だからこそ,今,その思想の公正さや普遍性が問われているのでしょう.
 ミネアポリスで黒人男性が警官によって殺害された事件の後,BLM(黒人の命も大事)運動がいっそう活発になりました.
 アメリカ社会に深く根差す構造的人種差別に改めて注目が集まり,これに反対する活動が人種や民族の壁を越えて広く支持を集めるようになった時代に,私たちはさらに多くの同様の事例を知ることになるかもしれません.

 批判心理学や心理学史研究,心理学のメタ学問である理論心理学を専門とする研究者には,コロナ禍のもとで差別や格差や貧困などの構造的問題がいっそう深刻になった同時代の世界の状況と心理学が密接に関連していると見えます.
 私を含めて心理学者がこの状況を的確に知解可能にできるかどうか,問われています.


<追記>
 原口鶴子の事績について以前,当ブログに記載しました.
 原口が夭折する不幸が起こらず研究と教育を続けていれば,日本の心理学界の景色は今とはいくらか,変わっていたかもしれません.
 関心をお持ちの方はご覧ください.

 映画『心理学者 原口鶴子の青春 100年前のコロンビア大留学生が伝えたかったこと』 泉 悦子監督(2007年)
 (http://critical-psychology.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-3f35.html)










 

 

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